スタッフ紹介

スタッフ紹介

伊藤 博範

伊藤 博範

伊藤工設計代表、一級建築士

利府町在住

私の父・祖父は共に大工職人で小さな工務店を営んでいて、幼い頃より現場に出入りしていました。木造住宅の設計・ゼネコンの現場監督を経験し、平成2年、伊藤建築設計室を起業。大手ゼネコン設計部協力の際は仕事に対する姿勢に大変な影響を受けました。また、大手住宅会社の社外設計プランナーとして多くのお客様のプラン作成に携わることができました。 平成14年、父の急遽により、設計業務だけでなく、住宅の施工も行う(有)伊藤工設計を設立。
「近くの木と職人でつくる家づくり」活動を続け、地域型グリーン化事業による仲間の工務店と意思疎通しています。
地域材を利用し、みやぎの気候・風土に合った家づくりを大切にし、誰もが手の届く自然素材の家をつくっています。

経歴

1. 生い立ち

私の父、祖父は家をつくる大工職人で、小さな工務店を営んでいました。
小さいお城のような50~80坪ぐらいの家を得意としていた工務店です。家の隣には木材加工場があり、墨付けをして、梁、土台、柱等を3週間ぐらいかけて加工していきます。朝から晩まで音を出し、いつも職人や業者で賑わっていました…。

父を含め兄弟4人が大工職人でした。現場に行く前には必ず朝茶を飲んでから出発するのですが、いつも朝食と同じ時間になります。夕食時は、現場から職人が帰ってくると、お酒を飲みながらの反省会が茶の間ではじまります。終盤は口論になり、ヒートアップしケンカになり…。翌朝は何事もなかったような朝がはじまります。それの繰り返しの365日落ち着けない。そんな家が私は嫌でした…。

家系が大工職人ということもあり、小さい頃から家づくりに携わってきました。
バイトと称して、中学・高校時代の春・夏・冬休み半分は、職人の手元をして小遣いを稼いでいました。もっと小さい時も、安全帯を付けないで高いところに上がって作業をしたり…。
それが当たり前の時代でした。親の後を継ぐのも当たり前、選択肢はない昭和の時代でした。

19歳の時に虫垂炎の治療を遅らせ腸閉塞になり、開腹手術をすることに…。
力仕事は難しいと判断したか、父からのアルバイト要請は以後なくなりました。

2. 社会人

大工職人の家系だったので小さい頃から家づくりを経験しますが…お腹の問題があり、力を必要とするものではない設計の仕事に向いていきました。

木造住宅会社

最初に就職したのは住宅会社で、木造の住宅設計に携わりました。大工職が4組いる年間24棟ぐらいを完工する住宅会社です。図面を引き、役所に行ったり、駆け出しなので他に積算やごみ片付け、現場助手などの仕事もしていました。建築家と言われる人の仕事を体験したり、各社が競合する大きな造成地の建て売り分譲で、自分がプランをした家がオープン初日で契約済みになった時の嬉しさは忘れませんが…3年もすると鉄骨やコンクリート建築の想いも出てきました。

設計事務所

次に設計事務所で働きます。鉄骨造や内装の設計、ビルの施工図・部分詳細図の仕事もしていました。大手ゼネコンや商社との付き合いがあり、仕事は木造の住宅の規模をはるかに超えたもので、今までとは違う経験をさせていただきました。地下鉄開業に合わせた仙台駅のファーストフード店の工事では、夜中の仕事で1カ月ぐらい地下に潜っていたことを思い出します。休憩は誰もいない真夜中の駅で地べたに座りながらコーヒーを…。一緒に付き合ってくれた職人さんには感謝です。でも、図面の線をどうやって立体としてつくっていくのかを知りたくなります。

ゼネコン現場監督

ゼネコンの現場監督を志願します。コンクリート4階建てのアパートを意匠図から躯体図を描き、自分でトランシットを振り、墨(基準線)を出してつくっていきます。コンクリート階段も自分で段の定規をつくり、墨を付けていきます。地下からつくっていき4階まで造り終え、仮設足場が取れ、建物が見えた時の感動は今も忘れません。毎日何回も現場足場を上がったり下がったり、かなりの体力が必要で筋肉質な体系に変わりました。職人・業者と直接かかわり、いろいろなことを教えていただき、助けてもいただきました。

個人の設計事務所

それからバブル崩壊がありますが、個人の設計事務所を立ち上げます。
木造の住宅の設計・施工の注文があり、工事は父の工務店に6棟ぐらい紹介しました。その他に大手住宅メーカーで住宅のプランをつくる仕事と専門学校の講師をしていました。
大手住宅メーカーでは建て主と直接打ち合わせをして住宅プランをつくる仕事です。30棟ぐらいまとめさせていただきました。専門学校では建築の法規と住宅計画の講師をしていました。

ゼネコンの設計部

そんな時、スーパーゼネコンの設計部から声がかかります。
22階建てのオフィスビルの計画をするので内勤で働いてほしいと…。超高学歴でも入れない会社に…私が内勤で勤めることになったのです。ちょうど長女が生まれた時でした…。

計画のオフィスビル22階建てでは4階部分に大きな梁があります。メガストラクチャーといって約40mもスパンが飛んでいて、間に柱はなく、その上に18階が載っている特殊なビルでした。図面を引き、模型をつくり、外観の図面に色を付けたり…毎日が刺激的で大変だったけれど、楽しかったことしか思い出しません。
個人の設計事務所では経験できない規模です。設計の進め方、図面で表現する情報、仕上げ材の使い方等や会社のスタイル、雰囲気、打ち合わせ方法も学ばせていただきました。

3. 起業

きっかけは父の死です。胸が痛いということで診察に行きましたが…そこから約3週間のことでした…。
小さい頃から知っている職人・業者に集まっていただき、これからどうするかを話し合いました。継続してもらいたいという声が多くありましたが、個人の工務店は廃業することにしました。

今までの家づくりの「いいところ」を残し、「わるいところ」は改めなくてはいけません。

この仕事に就くずっと前から考えていました。
近くに木があるのになぜ利用しないのだろうか?
近くに職人がいるのになぜ一緒に建てないのだろうか?
本当の家づくりはこれでいいのだろうか?
小さいお城のような家ではなく、シンプルで飽きの来ない、断熱性が良く、長持ちする家をつくるには…。

新しく会社を興すことにしました。旗印は「近くの木と職人でつくる家づくり」です。

会社名は特にこだわりませんでした。私が設計の仕事をしていたので「設計」の文字と急になくなってかわいそうなので…父が営んでいた工務店の「工」を入れ、木造住宅専門の設計・施工会社を設立しました。

モデルハウス

最初につくったのは自宅です。見せる家がなければ想いが伝わらないと考え、モデルハウス兼用の自宅をつくりました。みやぎ材を100%利用した家です。
自分たちで広告チラシやホームページを作り、完成見学会を行い、週末はモデルハウス兼自宅にて、お客様と打ち合わせをおこなうことができました。知名度も実績もないのに来ていただいたのです…。感謝しかありません。

国交省地域型住宅グリーン化事業

これは最近の名前ですが、当初は地域型住宅ブランド化事業というものでした。
川上(原木供給者)や川中(木に携わっている業者)がグループを形成し、地域材を利用し、地域に合った家を提供する場合、建て主に助成する事業です。

そのためには国から採択をいただかなくてはいけませんが最初の審査はかなり厳しかったようです。宮城県はで数グループしか採択をいただけませんでしたが、その中に「近くの木と職人がつくる家づくり」がありました。

会社を設立する前から「近くの木と職人がつくる家づくり」を構想していました。
構造材はみやぎ材をメインとした地域型住宅を近くの職人達でつくり、植林をし、OB様と一緒に工作教室をおこなってきたのが採択の理由で、今日に至ります。

ブログを見る「おもい出し日記」
伊藤 美和子

伊藤 美和子

資金計画アドバイザー、事務一般

利府町在住、気仙沼唐桑出身

お客様との打合せでは、ほとんど伊藤と同席して、資金計画や、住宅ローンのアドバイスをさせていただいています。同席する理由は他にもあって、提案や説明は伊藤の役割として、私はお客様になるべく寄り添う立場でいられる、女性の方がお客様がリラックスして心配事や要望を言い出せる雰囲気をつくってあげられるのでは・・・お客様にとってのサポート役でありたい、と自分では思っているのです(ひょっとして、思い違いかもしれませんが・・・)。それと、小さなお客さんは大歓迎です。
 自宅を新築した時、長女は中学2年、次女は5年生でした。長女は大学進学時に家を出たので5年位しかこの家で暮らさなかったことになります。もっと早くに家を建ててあげたかったと後悔しています。
 無理のない返済、適正な借入額、しっかりした資金計画、安心できる人生設計をし、ベストなタイミングに合わせて、想い描いた家と健やかな暮らしをを実現してほしい・・・、少しでもお手伝いできれば嬉しいです。


後藤 正彦

後藤 正彦

設計・監理担当、二級建築士

仙台市泉区在住、山形県鶴岡市出身

小さい時から、学校の図工時間や雑誌の付録・プラモデルやミニ四駆等何かを作ることは好きでした。父は大工ではなく会社員でしたが、叔父が大工をやっています。中学の頃に実家の増築をしました。その時に何故か面白そうだなぁと思い建築に目覚めたのかもしれません。広告のハウスメーカーのチラシを集めて間取り図を見るのが好きでした。
 自分の部屋の模様替えも好きで半年に1回はやっていたはずです。メジャーで箪笥や机やベッドの大きさを測ってノートに部屋の寸法を書いてぴったり入るかどうか宿題より熱心に考える変な子でしたね。
 山形の高校卒業後は自分で家を作ってみたい!と単純な発想で、資格取得の最短手段も考え親に相談、3年間専門学校に通って無事2級建築士の資格を取ることが出来ました。今は好きな仕事に就けているので親には感謝しています。
 施主様とは契約後の仕様の詳細について打合せしたり、工事が始まってからも現場に足を運んでもらい、その都度確認していただいたり、簡易な変更や造作であればご要望に添えるようにしています。職人さんは、施主様に接すると、よりいい仕事がしたい、と思うような気がします。是非、職人さんとも仲よくして、工事の様子も楽しみのひとつにしてもらえたらと思います。


荒川 香奈

産休中

荒川 香奈

設計担当、二級建築士

仙台市宮城野区在住

宮城大学事業構想部デザイン情報学科 卒

小さい頃から、将来は自分でプランをした家で暮らしたいなぁと思っていました。家の近くにあった大型の住宅展示場に遊びに行っては、妄想を膨らませる小学生でした。大学では建築について大枠を学びましたが、そこでもやはり惹かれたのは人が「住む」空間でした。住む人の顔、生活が思い浮かぶ空間を考えていると心躍ります。
 そんな私にとっては、お客様はもちろんのこと、スタッフ、職人さん、業者さん…いえづくりの過程に関わる人の顔がわかる地元の設計事務所に勤められることは、とても幸せなことです。
 「いえ」は、家族みんなが安心できる、お気に入りの場所であってほしいと願っています。仕事や学校で頑張ってきて、家に帰って気を抜いて、ごはんを食べて、お風呂に入って、家族と言葉を交わして…1日をリセットするところ。

 現在は、図面の作成・申請書等の書類の作成、お客様との打合せのサポートがお仕事の中心です。お客様に設計段階での間取りや空間をできるだけ具体的に把握して頂けるように、イメージ写真の作成も行っています。お客様に最後まで納得できる家づくりをしていただけるように心がけています。


現在は子育て中で貸家住まいは仙台市内ですが、利府で生まれ育ちました。設計という立場ですが、小さなビルダーなので「打合せ~ご契約~仕様打合せ~工事の着工~引き渡し~アフター」までお客様、職人さん、取引業者さんの顔がみえる環境で働かせてもらっています。見学会でのご案内からプランの提案・お手伝い、申請業務、断熱シミュレーション、耐震等級の計算、仕様打合せ、現場でのチェック、引き渡しとそれ以降の点検への同行など…その他もろもろオールマイティです。

昨今の家づくりは断熱・機密性能、耐震、耐久性、工事品質の確保、デザイン、仕様とこれまで専門的だった情報へのアクセスがお客様でも簡単になりました。ただそうすると起こるのは…情報が多すぎて「結局どれをえらべばいいの?私たちの暮らし方や予算では一体何を選んだらいいの?」ということです。また、原価高騰に伴う値上がり、仙台圏では土地探しもなかなかスムーズにいかないのが当たり前になってきています。

どこを落としどころにするか納得いただけるように、肝心かなめのコストパフォーマンスを念頭におきながら、でもせっかくの注文住宅だから…こだわりたい部分、たとえばそれは自然素材であったり、間取りであったり、設備、機能、安心できる工事、住み心地…それぞれにお応えできるように、ご家族がほっとできる家を建てるための力になりたいと思います。


関 愛美

関 愛美

設計アシスタント

仙台市在住

クリスマスプレゼントに欲しいのは「しんちく」とサンタさんにお願いするという
 変わった子どもでした。小学2年生の時に伊藤工設計に出会ってから、その魅力に幼いながらに魅了されてからというものの、完成見学会や各イベントには両親よりも積極的に参加し、家づくりに対する思いが強くなっていきました。当時の週末の予定は決まって土地探し。売り土地の看板や広告を見ると、未だにソワソワしてしまいます。予算の都合で中古住宅や建売住宅の購入を検討する両親に対して「伊藤さんの家じゃなきゃ嫌!」と泣きながら訴えたことが強烈に印象に残っています。そんな中、小学6年生で念願のしんちくを建てることができたことが、これまでの人生で一番嬉しかった出来事でした。
 それから約10年。家と共に成長し、回り道をしつつも、憧れていたしんちくを作る側となりました。お客様にとってかけがえのない財産を作るお手伝いをすることはそう簡単ではありませんが、スタッフで唯一のOBという立場をフル活用してお客様に近い目線で業務にあたっています。